鉄道巡検・旅行録

鉄道巡検録と鉄道旅行録を掲載します。

日本一周旅行前編⑧

みなさんあけましておめでとうございます。年内に終わらせようという企画がついに年を越しました。年末忙しかったのでこの記事ですら一か月以上時間を要してしまいましたが、諦めずに書いていきます。

 

 

7/29

本日は快活クラブからのスタートです。出発が6時を回っていたので無料モーニングがだべれました。これが重要なパワーの源になります。

昨日に引き続き羽越本線に乗って行きます。

 

羽越本線(鶴岡~坂町)

今回乗るのは普通列車ではなく特急いなほです。この辺り朝の時間は特急しかなくやむを得ずこの列車になりました。しかしいなほ発乗車なのでワクワク感もありました。

静かな駅に大きな音を立て特急が入線してきました。これに乗り込み再び南を目指します。いなほを担う列車は交直両用の電車で、ここから先交流直流が変わる区間があってもスムーズに走ることができます。しかし新潟支社は通勤列車として交直両用の列車をもっていないため、途中の村上を超える普通列車は全て気動車によって運行されています。鶴岡を出るとすぐに海沿いに向かっていき、山と海の間を海岸線に沿って進んでいきます。村上まではずっと崖と海を見ながらの旅です。

途中で多数の海水浴場や笹川流れといった景色のいい特徴のある区間を通過していくと間もなく村上に到着です。

村上からは直流の見覚えのある通勤列車なども増えてきます。ここまでは新潟の市街地からくる列車が頻繁に来ています。本当は村上の市街など見てみたかったのですが、朝早すぎるので、このまま乗って行きまして次の坂町で下車しました。ここからは坂町から分岐している米坂線に乗って行きます。

 

第7県目:新潟県

今回は観光はしませんが新潟県に入っています。

 

米坂線(坂町~米沢)

坂町では一時間以上の待ち時間がありましたが、この時間では店などほんとんど空いていなかったので、時間をつぶしていると大きな音を立てて気動車が入ってきました。

羽越本線を新潟方面から下ってきた快速べにばな号です。この列車は羽越本線の新潟から米坂線に乗り入れる快速列車なのですが、快速運転は羽越線内でしか実施されません。本当は始発駅からこの列車に乗りたかったのですが、今回は切符の指示に従い坂町からの乗車になりました。そしてこのべにばな号は以前あさひ号として新潟から仙台をこの米坂線経由で結んでいた列車でした。その他にも米坂線日本海側と太平洋側を結ぶ動脈としての役割を担っていたのですが、羽越線が電化され多くの特急や貨物も電化されてしまったのと共に山形新幹線の開通により奥羽本線が標準機にされてしまったことで動脈としての役割を完全に終えることになりました。

そのような歴史がある路線をこれから進んでいきます。

坂町を出るとすぐに90度方角を変えるようにカーブを曲がります。そして荒川に沿うように進路を取ります。

景色の良い山間をしばらく行くと小国に到着です。この辺りの山間区間は雪景色がいいことで有名なので是非雪の季節にも行ってみたいところです。なぜか毎回夏に訪れることになってしまっています。

小国は米坂線の丁度中腹のあたりにある町でこの場所で小国指令所として坂町~今泉間の運行管理も行われています。

小国からは明沢川に並走する川が変わりまして山間を進んでいきます。

沿線にダムがあって川の名前がひっきりなしに変わるなどこの辺は川の名前を出してもよくわからないかと思いますのでとりあえずなんかの川が並走しているということにしておきます。

山間を抜けると少し北に進路を変えて進みます。なのですが、この後大きく円を描き南に進路を変えます。これは先に鉄道ができていた路線に接続するためにこうなったと思われます。その駅が今泉です。

現在では山形鉄道フラワー長井線となっていますが、昔は国鉄長井線だったもので直通運転など可能な線形になっています。米坂線長井線はお互い合流しまた分岐するxのような線形をしています。これは交差しているともとれまして、実際クロスするように運行したほうがわかりやすいということがあります。しかし線路が平面交差であるためこのような運用が主流だったのだと思います。

そしてこの長井線を移管する際にもこの事情や米沢周辺の町を通るということもあり米坂線は現状の線路のままになったのではないかなと考えています。

というのも米坂線の末端部分は何かを迂回するかのようにぐにゃりと曲がっているのです。これが何故かと言いますと先に自社の路線が短絡する部分を形成していて且つ通りたい町が米沢周辺にあったのではないかと考察しています。この事情から先ほどのようなクロスの線形が生まれたのだと思います。

実際に現在の沿線を見てみると米沢の周辺を通りたかったのかなという考察が主流になると思います。

今泉からは東に進む長井線とは対象に南に進路を変え進みます。この平野部は反対の際に奥羽本線があるようなところで鉄道に囲まれるような形になります。

米沢の町が始まる西米沢までは5駅ほどありますのでまぁまぁ距離がありますが人の乗り降りがそれなりにあるとろこです。西米沢からは再び半円を描くような形で北向きに進路を取れるように奥羽本線と合流します。これが先ほどの話とも関係していまして米坂線から長井線へと短絡するように直通していくと南向きの進路になるように奥羽本線と合流することになります。これを避けるためにもこちらの迂回ルートが米坂線になったのではないかととも思います。

快速べにばなは二時間ほどの時間をかけて米沢に到着しました。

米沢は山形新幹線も止まるような大きな駅で山形の玄関口のようなところです。新幹線のホームには米沢牛の駅弁屋が並ぶようにあることで有名です。米沢の周辺も見ていきたいようなところがありまして板谷峠などいきたかったですが、早急に先を急ぐ理由がありまして今回は最速の乗り換えで行きます。

 

奥羽本線(米沢~横手)

写真も全くないままかなり乗車のシーンが多いと感じると思いますが、それは先ほど述べた先を急ぐ理由にもなっている重要事項です。一眼カメラのバッテリーが秋田で切れましたので充電器が必要なのですが、北海道で充電器をロストした際に受け取り場所を仙台としてしまったので仙台までは一眼無しで旅行しなければならなくなってしまいました。少し加減を見誤ったかなという感じですがまだカバーできるくらいでよかったです。しかしその関係で本日は一日こんな感じです。

さて話がそれてしまいましたが今回は待ちに待った奥羽本線の解説です。秋田では解説しませんでしたが、今回はその大部分に乗車しますので思い出しながら書いていきます。

奥羽本線はもともと福島から青森を結ぶ一大幹線でした。福島と青森の両端で東北本線と接しており、東北と東京を結ぶ重要なルートにもなっていました。東京から秋田を経由して北海道に至る夜行列車などもあったりと東北本線と並んで盛んな路線でした。

しかし1990年に山形新幹線、1997年に秋田新幹線が開業すると状況が一変します。

まず前者の山形新幹線ですが、本当は山形新幹線という路線はありません。では何線かというとこれこそ奥羽本線なのです。山形新幹線奥羽本線の線路に新幹線の車両が乗り入れているだけにすぎません。ですがよく考えてみると在来線と新幹線は軌間が違うはずで車両を直通させることはできないはずです。ではどうしたかというと、在来線の線路を改軌し広げてしまったのです。それも奥羽本線福島県の一部と山形県内のみのことです。つまり奥羽本線は福島から山形の間のみ新幹線の軌間である標準軌になってしまい、各地から奥羽本線を走っていた特急の乗り入れが不可能になってしまいました。これにより様々な特急列車が影響をうけました。わざわざ改軌して新幹線を乗り入れ可能にしたものの、それだけでは地域輸送に対応できないのでのいわゆる標準軌の在来線を走らせることになりました。これには山形線などと呼ばれており、線路に自治体の力が働いた大きな例の一つなのではないでしょうか。後に改軌される区間が山形から新庄まで延伸され、山形県内の奥羽本線はほぼ標準軌となり山形線の完成形ともいえる形ができあがりました。それは奥羽本線分断の完成も意味していて考えさせるものがあります。ならば奥羽本線をこの先の区間も改軌すればいいじゃないかと思いますが、この部分の改軌はあくまで山形県が大きく働いたものであって、秋田県青森県へと延伸していくことは時間短縮性や改軌の規模を見てもまず不可能であります。それは次の秋田新幹線も関係してきていることです。

秋田新幹線山形新幹線にならって在来線を活用した新幹線を目指して作られたものです。なのでこちらも同様に法的には新幹線ではなく、新幹線車両の在来線直通にすぎません。ですがこちらは上り線を在来線のまま狭軌として使い、下りのみ改軌して標準軌にするといったことや狭軌標準軌の共用ができる三線軌を活用して在来線の乗り入れも可能になっています。というのも秋田新幹線の新設区間が二路線にまたがることや、大部分をローカル線である田沢湖線が占めていることもあります。奥羽本線に関しては、新設区間が大曲から秋田と限定されているために山形線のようにできなかったということもあります。田沢湖線がもともと単線区間を有していたというのも大きいと思いますが、ともかく盛岡から田沢湖線に乗り入れ大曲でスイッチバックする形で秋田に至るという一連の特急に秋田新幹線という名前がつけられました。さきほど法的に新幹線ではないと言いましたが特急と何が違うかというとまず最高速度が大幅に違います。在来線は100km代なのに対し、新幹線は200km代です。そして新幹線には原則踏切がつけれなかったり、信号装置に決まりがあったりと高速鉄道として規格が決まっているわけです。これに則った新幹線をフル規格というのに対し、新幹線の車両乗り入れ区間ミニ新幹線などと言われます。山形新幹線秋田新幹線というミニ新幹線の誕生により、奥羽本線は悲劇の運命をたどることになりました。

しかしどちらの新幹線も成功しているおかげでそれが悲劇だと言われることは少ないです。いくら改軌されて分断されようともその姿は奥羽本線であり、むしろ整備新幹線としてフル規格の傍ら第三セクターになってしまった路線の方が悲劇だと言えます。これについて説明しますと、この事例と対照的にフル規格で新幹線を建設した又はこれからする箇所についての多くは国の方針に則り平行している在来線を原則JRではなくすという方針がとられています。これはJRの負担を軽くするためのものなのですが、そのつけを払うのは自治体です。自治体のみで並行在来線の運営を行わなければならないのです。この最たる例が今まで見てきた青い森鉄道いわて銀河鉄道なわけです。そしてこれから見ていくえちごトキめき鉄道やあいの風とやま鉄道であります。これらがJRが分離した弊害で不便になった事例など星の数ほど聞くことができ、このスキームのせいで新幹線を嫌がる自治体まであるくらいです(佐賀県など)。今の整備新幹線スキームの歪さを見ると奥羽本線ミニ新幹線はかなり合理的で優れた解決手段だと言えます。そしてこのミニ新幹線の線形を改良するため、新たなトンネルを掘ったりと徐々にさらなる高速化がなされて行っています。奥羽新幹線や羽越新幹線など基本計画が一応あり、想定はされていたものの事業化に至っていないのも事実で惜しいことだと思いますが、今のミニ新幹線の現状は特段悲しむことではないし、寧ろそれらの新幹線を作っているより便利でよい未来があるんじゃないかと個人的には思います。

これらの線路事情になると自分自身が生きている今で問題になっているものと深くかかわっていてどうしてもヒートアップしてしまいます。伝わったかわかりませんがこれが奥羽本線で伝えたかった内容です。完結にまとめますと奥羽本線がズダズダに切り刻まれることで、自治体間の調和をうまく図っているのではということです。奥羽本線に乗るときに何故か哀愁のようなものを感じるのは、このようなことが思い浮かぶからでしょうか。

米沢から奥羽本線普通列車に乗り込み山形を目指します。新庄行きの山形新幹線に乗ってもよかったのですが、せっかくなので節約も兼ねて普通列車にしました。通学の学生を大勢乗せて列車は発車しました。これはまさにラッシュアワーです。早めに後面展望の箇所を確保しといてよかったです。前面展望もいいですがワンマン列車は後面展望に限ると勝手に思っています。

標準軌なだけあってスムーズに列車は各駅に停まっていきます。難峠を越えてきて山形を急ぐつばさに途中抜かれる箇所があったように思いますがよく覚えていません。それは列車がずっと満員状態で気が気じゃなかったこともあります。

平野部の市街をうまく結ぶように列車は進みます。南陽から山間を超えてかみのやま温泉などもあるようなところを過ぎると蔵王につきます。ここは山形市街のはじまりのようなことろですが、蔵王温泉行のバスなど皆無でなぜ駅名が蔵王になったか疑うほどである。蔵王を過ぎて新幹線の車両センターを通過すると間もなく山形に到着です。

これから先の奥羽本線も長いので一旦ここで休憩を取るため改札を出ました。ここでやっと昼ごはんが食べれます。

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ずーっと文章で疲れたと思いますがやっと画像です。それも飯テロ画像になってしまいましたがバッテリー故に仕方ないことです。

ここは米沢牛の案山子という店でブランド牛である米沢牛を食べられる有名店です。今回の訪問時はコロナウイルスなどの影響もあって割引や増量が過剰にあったこともありますが、通常時でもかなり安く米沢牛が楽しめると思います。味についてはもう説明する必要はないと思いますけど、気になる方は行って食べてみた方がいいです。そのくらい料金では測れない価値のあるご飯を頂き、一瞬で疲れが軽くなりました。今日の行程はハードですのでパーッとやれて丁度よかったと思います。

 

飯を食ったら再び山形駅に戻りまして奥羽本線に乗り込みます。今思えばさっきの区間ではなくこっちの方が満員列車だったなと思い出しました。予算の都合上しかたなかったですが、本当に鈍行の選択を後悔しかけました。

山形線はここから単線になるのですが、面白い光景が見られます。それは山形に乗り入れている左沢線仙山線の関係です。まず一つとして山形を出た奥羽本線は山形城のお堀の土手を通ります。まるで神田川の土手を走る中央線のようです。そして奥羽本線なのですが標準軌狭軌の単線並列の様相をなしています。これは山形線として改軌する際に、途中から分岐している仙山線左沢線のために狭軌の線路を一部だけ残したことが理由です。左沢線は次の駅に着く前に分岐していってしまうのですが、仙山線は二駅過ぎた後に分岐するのでなかなか並走することになります。そして左沢線山形線の西側に分岐するのに対し、仙山線は東側であることと先ほどの単線並列の事情を踏まえると面白い事実が浮かび上がってきます。狭軌標準軌がどこかで交差する箇所を作る必要があることがわかると思いますが、なんと二つの線路がそのまま平面交差してしまいます。これはさながらダイヤモンドクロスと言えます。こんなところに普通鉄道どうしのダイヤモンドクロスがあるなど想像もつきませんでした。これは車内でびっくり仰天しました。しかしそれはダイヤ上のネックになっている箇所ともとれまして、列車は早々に出発していきました。この光景は後日もう一度みることになります。

そんなおもしろ区間を抜けると永遠に直線の線形となります。こりゃ新幹線直通したくもなるよなぁと思いなが列車は進んでいきます。

のほほんと記事を書いていますが、この時の車内は東京の通勤ラッシュとなんら変わらんくらい混んでいて壮絶でした。学校の登下校時間にもろ被りしてしまったみたいでもう大変です。なぜ編成を増やせないのかと何度も思いました。天童や東根など結構大きな市街があるたびにまとまって人が降りていきました。その市街の規模が徐々に小さくなっていくと車内も空いてきたなという感じでした。新庄の手前ではちょっとした峠などもあってもうそのあたりになると車内は大分落ち着きを取り戻していました。街が見えたなと思ったらいきなり新庄につきました。駅の外に出てみるとその寂しさにびっくりしました。新幹線の終点のはずだし、落ち着いとはいえ車内の人数からは想像ができないくらいのものでした。一応陸羽西線陸羽東線のジャンクションにもなっているでろうところがここまでとは驚きました。よくここまで新幹線を通したな山形県の頑張りを感じる反面、これより先はないだろうなと改めて痛感させられました。もしかしたら市街が駅から遠いパターンかもしれませんが、googlemapでみてもこれまでの市街との規模の違いが見てとれます。

ここから本来の姿のまま残されている奥羽本線にのって北上していきたいのですが、ここから先は本格的なローカル線になるらしく本数が著しく減ります。同じ路線なのに乗り継ぐのに1時間といった感じです。この1時間って微妙で待つには長いけど、かといって観光とか何かするには短いんですよね。しょうがないので駅の待合室で東京五輪を見てました。確かバスケが放映されてて気休めにみてました。八村選手しか知らんけどやっぱり圧倒的な存在感だな~という感想しかなかったですが、この旅行では五輪を各地で楽しめた気がします。記事になってなかったかもしれませんが、ネットカフェに着くや否やテレビのソフトを起動して五輪見てました。本当は地元の競技をしっかり見たかったんですけど、旅行の日程とうまくかみ合いませんでした。

そんなこんなで列車が来たので乗り込みます。

新庄は先ほどの通り改軌された山形線の終点と既存の奥羽本線は不自然に分断されたような形のホームをしています。奥羽本線の大動脈としての名残を感じられるところです。

ここから一時間はマジで山って感じの車窓です。こんなところから誰が乗るんだよって感じのところに駅があります。その駅の中に一つ面白い駅名があります。「及位」という駅名なのですがなんと読むかわかりますでしょうか?

答えは「のぞき」です。こんなん読めるわけないだろ!と最初は思うと思いますが意味不明な地名すぎて意外と覚えている人が多いです(適当)。

途中川を超える部分や高架のところだけ複線になったりと山間部ながらも昔は貨物列車や特急のルートだったことを再確認させるような構造物があります。今では意味不明な駅名くらいしか紹介することがなくなりました。googlemapを見ると近くに銀山とかあるらしいですがよくわかりませんでした。及位を過ぎると秋田県に入ります。そこから数駅進むとようやく人が住んでそうなところが現れます。河口に沿って細長く広がる湯沢市の市街みたいです。昔は別々の自治体だったのかなと考えているとどんどん市街が大きくなっていきます。越後湯沢には旧国名ついてるのにこっちにはなぜ付けないのだろうかと考えていると湯沢駅に到着です。ここからは川によって作られた大き目の谷のようなところを進んでいきます。立ち並ぶ家を見ながら皆瀬川を渡ると横手市に入ります。十文字や醍醐などかっこよさめの駅を過ぎると右手から北上線が合流してきて間もなく横手です。本来の姿である奥羽本線はここから先に北にむかって一直線に大曲まで伸びているのですが、今回は切符の指示の都合上ここで下車します。因みに乗っていた列車は大曲からミニ新幹線との共用区間を走って秋田まだ行く列車でした。ズタズタにされた印象でしたが、イメージでは共用区間がありながらも秋田から新庄まで走る列車と、山形線として新庄から福島まで走る列車で二つの系統に分断されたと考えるのが普通ではないかなと思います。こう見ると今も異彩な輝きを放っている路線に見えてきました。秋田新幹線のルートを見て秋田観光として田沢湖に行く案が没になってしまった悲しみを思い出しながらも次の列車に乗ります。

 

北上線(横手~北上)

北上線奥羽本線東北本線を連絡する路線の一つなのですが、そのなかでも異色の存在である路線です。高規格な割に知名度が低く陰なイメージがありますが、乗って行きます。

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横手の発車番線は0番線だったのですが、英字のOや〇に見えてちょっと面白い表示だったので写真を撮っときました。結構ここまで来て疲労がたまりつつあったのを覚えています。

しばらく待っていると列車が出ました。秋田県有数の都市である横手を出るとまもなく山越えの区間に入ります。割かしクネクネしていますごこれでも奥羽本線東北本線を結ぶ路線の中では線形が良いらしく、昔は大型機関車や優等列車も運転されていました。いまでも災害時の迂回経路として臨時に列車が入ることがたまにあります。

車窓は暗くてイマイチわからなかったのですが、川沿いにずっと走っています。

岩手県に入るとすぐにゆだ高原という観光地の駅停まります。その次の駅はほっとゆだという有名な駅に着きました。ここは駅舎に温泉が併設されているこで有名で、その施設の名前がほっとゆだということから子の駅名になりました。温泉の時計には次の列車と現在の時刻が書かれている時計があるらしいです。一度行ってみたいところですが北上線を通るときは何故か毎回夜になってしまいます。多分北上線の終電が遅いことが関係しているとも思います。

そんな駅を過ぎると錦州湖のすぐ脇を進んでいきます。ここは湖にダムを作る際に廃線になった区間があるらしく、今でも水位が低ければ見えることもあるそうです。

廃駅のゆだ錦川湖があった場所を通過ししばらく川沿いに進みますと北上市に入り町っぽい風景になってきます。そのまま直線的に市街を進み、東北本線と合流するため大きくカーブを描くと北上に到着です。

現時点で時刻は六時半を超えまして結構疲れてきましたが、体に鞭を打ち先に進みます。

 

東北本線(北上~一ノ関)

もう長らくこのシリーズを書き続けているので東北本線をもう紹介したか忘れてしまいました。今回の乗車では車窓は真っ暗で線形もほぼ直線、車両も東北の汎用型ということで特に紹介することもないです。路線紹介は次回にしておきます。強いて言えば一ノ関でお菓子を買って軽食といきました。

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これで少しはパワーを回復できたと思います。まだ今日は長いです。

 

大船渡線大船渡線BRT(一ノ関~大船渡~陸前高田)

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一ノ関では駅名表にピカチュウがいました。これはこれから乗る大船渡線と関係があります。大船渡線では定期的にポケモンwith you trainという臨時列車が走っています。大船渡と気仙沼間の大船渡線鉄道区間を走っていまして、是非乗りたいのですがまだ乗れていません。因みに気仙沼にも大量のポケモンがいます。

 

大船渡線を進んでいくんですが、このブログで一回取り上げたのを明白に覚えているので説明は適当に済まします。大船渡線我田引鉄が行われた代名詞でもある路線でその線形からドラゴンレールとも呼ばれます。震災で被災し気仙沼から先に区間廃線になり、現在その跡地をBRTとしてJRが運営しています。私は既にこの大船渡線に数回乗車しておりまして沿線の復興度合を毎回肌で体験しています。

 

第8県目:宮城県

 

気仙沼から先の区間は切符の指定区間ではないのですが、駅メモの目標による関係で乗る必要が生じてしまいました。何度も通っているので昔の計画では再訪の必要はなかったのですが、度重なる新駅の設置で予定を変更することになりました。指定経路から外れるということで追加の運賃支出になりました。

ポケモンが大量にいる真夜中の気仙沼で乗り換えバスに乗って陸前高田を目指しました。前回は陸前高田三陸ラーメンのようなものを食ったのを覚えており、懐かしさに浸りながら町を歩きます。ラーメンを食べた場所はまちなか陸前高田という復興のシンボルのような場所で、前回も見たのすがより一層復興が進んだように思えます。

今回は先ほど述べた駅メモの関係でここから往復二時間程歩かなければなりません。本当はこんな旅程はなかったのですが、訪れなければならないのに気づいたのが遅かったためこうなってしまいました。陸前高田から10分ほど離れるともう復興が結構未着手のところもあり、早々に怖い雰囲気になってきました。道があるだけで街頭も建物も何一つないところを数十分歩きます。十年前にここで起きたことを思い出すとあまりに怖すぎてツイッターを開きました。最近実装された機能であるスペースを使い知らない人とお話をしつつ歩き続けました。途中でgooglemapでは道と判定されているのに、見るからに茂みだというところもありましたが、さすがに瓦礫を見ることはなく直接その災害傷口を見ることはありませんでした。傷跡だけでも十分に怖かったですが、続く道を歩くしかありませんでした。ここで図らずも「道」のインフラとしての重要性とその魅力に気付き始めました。関係ないですが鉄道オタクは鉄路と電車を包括しているのに、車オタクでは一般的に道路が含まれていないということは面白いと思います。そんなことを話しながら歩きました。記事にすると一瞬で終わるんですけどここの徒歩がかなり怖く、長く感じましてまるで永遠のようでした。改めてここで亡くなられた人にご冥福をお祈りしました。

 

しばらく歩いて陸前高田駅付近にもどってきました。少し小雨が降っていたので鉄橋の下にテントを張りたかったのですが、先客がいたので少し離れたところにテントを張り始めました。

すると張っている間に雨が強くなってきて急いでテントを展開し中に入りました。すると直後に雨が土砂降りになりました。テントの中でその音を聞いたのですが、移動するわけにもいかないし、テントは防水だと思うのでそのまま中にいることにしました。

寝たのか寝てないのかわからないようなうとうとを繰り返していると、気づいたら深い眠りにつき休息となりました。

 

単調な記事になってしまいましたが明日は写真もありますのでご期待ください。